「右に同じ」でいいじゃない。

駄文にゅうすさんのところの2006/03/24の記事からオリジナリティに関することについてまとめがあった。
そのいくつかを見て思ったのだけれど、みんな「右に同じ」という情報のコピーについて過敏になりすぎていないだろうか?


takoponsの意味 - 自分の意見を述べることでは「右に同じ」とコピーを繰り返すことについて違和感を感じているようだ。
けれど、この違和感はブログに対して一定のこだわりを持つ人だからと考えられる。
多くの人たちにとっては「ブログをやっていること」は、ある種のステイタスであり、それ以上の価値を持たないと思う。
「右に同じ」というスタイルは、破綻することが少ない。必要以上に炎上する可能性を避ける上では合理的だろう。


多くの人は、オリジナリティー云々を心のそこから求めているとは思えない。
それは、オリジナリティーを維持し続けることは大変労力がいることに関係していると思う。
一日の時間は限られている。何か特別なことをやろうとすると、何か別のことはおざなりになってしまう。それに比べれば「右に同じ」は労力は殆どかからない。


つまり、「右に同じ」は非常にローリスクで低コストの良い戦略と考えられる。
実際に過去の研究を見ていると、コミュニケーションの多くはコピーが前提で、世界観が同じであることを確認することに重点が置かれる。
逆に弁証法のように価値のある反対意見を述べるコミュニケーションは非常に少ない。
ネットの著名性が反対意見を増やすという話があったけれど、総数が増えただけで多くは「反対のコピー」でしかない。


結局のところインターネットが普及することで情報の総トラフィックは増加したけれど、心の中に保存するべき情報はそれほど増えていない。
これは、社会人学生として、大学で学んだ情報が、ネットよりはるかに良かった経験から。
特に、多くのネット上で起きる論議の多くが、18-20世紀の哲学や社会学論議済みであることは非常に参考になった。


一日の時間は限られている。何か特別なことをやろうとすると、何か別のことはおざなりになってしまう。
でも、おざなりとはいえある程度のレベルが必要なことがある。
それには「右に同じ」の意見に合わせるのが一番安全だ。それもこれも、特別なことを成し遂げるためだ。


なんだ。結局、どこかで「右に同じ」をやらざるおえないじゃないか。


[追記]
もちろん、「やりたい特別なこと」が人によって違うから、いろいろなパターンがあると思いますよ。


その他参照
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060309#1141836092